昭和40年12月25日 朝の御理解



 あの人の様によい信心をさせて頂かれるのにどうしておかげが受けられんだろうかと、云う様な場合を誰彼の場合もそれを感じます。あれだけ熱心で、あれだけ実意丁寧でやっておられるのに、それでおかげ受けられんと云うのは不思議でたまらない様な人が沢山ありますけれども、そういうおかげを受けられんところにはおかげの受けられないやはり元があることを思わなければ仕方がないですね。
 昨夜、北野の共励会から昨日秋永先生が何時もおいでられるとに行かれませんでしたから長男が参りました。帰って参りましてから皆さん帰った後でまた上の子供達三人、私を含めて四人信心話になりましたらもうそれこそ時間の経つのも忘れてちょっと時計を見たらもう二時やった。夕べも遅かった。とうとう遅うなってしもた。信心話をしら真剣に一人一人の内容に触れて。
 私は何時もそういう機会を、頂くことは有難いと思うですけども、ほんとにひとつお互いがいよいよ、本当に高められなければならん、本当に自分の心の中に、すがすがしいおかげを頂かなければならん、本当に自分の心の中に有難いものを、求めての信心でなからねばならんと。それはお互いに親もなければ子もない、信心の共励と云う事になったらそこを共励するのだ。
 椛目のあちらこちらの共励会がございますけども、本当の共励と云うこと。本当に共に信心を分かりあおう、研き合うと云うのである。例えば昨日北野の共励会に中島からみんなと来とったかと私聞きましたら、いいえ来なかったとこういう。本当に例えばお互いがです、信心友達ね、それは度々案内せんでんと云うのではなくて、とその共励し会うということであるから。
 今夜もまた共励し合ましょうや、一緒に参りましょうかと、どうぞ今日も共励に来て下さいと、その事が既に共励なんだと。共励しあうという事楽しむ。例えば私どもが親子で共励し合うておりましたら、時間の立つのも忘れる様にして、ほんとに白真剣ないわばものにお互いが触れ合いながらです、信心の共励をしあうと言う事。でなかったら共励会ではない。も、椛目にお参りしよるけん、共励会にはそんなこっちゃない。
 ま、それは頂いたのは一部でございますけど、森部の高山さんが夫婦でここへ出て見えてから。今朝がたから頂いたお夢ということについてお届けされました中に、ちょうど八女あたりにある茶所ですね、お茶、茶園のような感じ、椛目の美土里会の方たちが全部お茶摘に行っておる、そこのその道がですね、もう実に素晴らしい道だけれど、急な道が、しかもそれが天地に通よれれる道だとこう。
 そしてその茶畑であると言いながら、実際は茶畑ではなくて、ここから天地に通うて行けれるという道だ。自分もお茶を摘むものですから絣のもんぺ上下を着て、その自分も行ったところがかば目の美土里会の方たちが全部見えておってから。もうほんとにこげな素晴らしい着物があるじゃろうか、というような着物を着たり、またそここで着物を着替えてから鏡を見ながら帯をしたり、もうそげなこと。
 あんたもうご祝儀のときんばし着るような着物着てから、どうしてお茶が摘まれるのちゆうごたあるふ、その言いよるところを頂いた。椛目の美土里会といや、もう言うなら椛目の信心の、あの人たちの信心を見りゃ、椛目の信心がいわば分かるというくらいに信心をしておる人たち。椛目でほんとに朝ご祈念にお参りする人たちの信心の共励機関、同時に御用機関でもある。
 率先して御用をさして頂こうじゃないですか、といったような方たちの集いであるその人たちがです、ね、ただもうほんとに見事な着物を着ておるだけで、実際のそれで御用が出来るはずがないと。お互いに共励しあってそしてその縦しなに、縦に繋がるところ道ではなくて、これをこんなに縦に繋がる、神様に繋がる道はね、急なごとあるけれどもこれを横から見てみよ、というてそのお声を頂いたそうです。
 その道を。それでそのこげな風にと横から見たところが、ははあ、横にこれを頂きゃ、そげん難しいことはなかたい、天地に繋がる道も、というておるところで目が覚めたという。いわゆる共励しあっていこうという横へのつながりということだ。神様と私と皆さんが縦に繋がっておるこの、道は確かに天地に繋がる神様に通うところの道ではあるけれどもこれは大変な至難なことなんだ。
 実を言うたら、だからそれをこう横に、いわゆるプラスになるでしょう。お互いがね、横縦のプラスということになって初めて本当のいわゆる天地に繋がる道と言う様な道に出ることも見やすうでけていく。いわゆる共励しおうていくということ。お互いが愚存のない、お父さん、ほんとに白真剣なところたい、あんたどんがどこをうちのお父さんが改まったらいい、と言う様な感じのところをひとつ忌憚なく話してごらん。
 というて、お父さんどこち言うとこなか、ていうわけなんです。けども、けれどもやっぱる。けれどもと私に教えてくれる。ははあ、なるほどそこじゃんな、そこばやっぱ改まらにゃいかんもんのと云うてお互いにもう本当に普通であんたそげんとこ改まらにゃいかんよ、例えば私が子供に申しましてもです、やはり子供の自尊心を傷つけ、かえって反発させる様なことでもです。
 そういう雰囲気の中でなら、子供達もよう聞いてくれるんです。はあ改まらにゃいかん、ほんとに早速この事を、改まらにゃいけんと云うて、お話を致しました。その中で長男が、土居の久富さんの、久富繁雄さんの信心が、素晴らしいところは、改めてそこに触れた様な気がしたことが、先日あったと云うて話しておりました。なるほどここでは、まあ信心の手本の様な。
 そのいわば誉められ役を勤めておられる様な、良いくじを引いて居られるわけです。椛目では。久富さんなかなか実意丁寧な方じゃ、実意丁寧な信心じゃ、土のような私達の憧れの的だと云う様な誉め言葉の中に何時も繁雄さんが例えられなさる。それで先日も或方が、ほんに久富さんもう貴方の様な信心がでけると、と云って言われる時に、もう繁雄おっちゃまがもうそれこそしみじみそれを言うとられた。
 いいえ私は、親先生の前だけですよち、もう私は椛目だけですよ。実は私は家に帰りましたら、本当に二重人格である。もう本当に、椛目ででけることが家ででけん。そこんところに、実は取り組んどるのであって、実際ああた達がもう、親先生がむごう言いなさるから、誉めて頂くからそれをそのまま、受けてだん頂くなら、大変実は私にはこげんところがあるのですよ。
 それをしみじみ言うて居られることを横で聞いてから、アー繁雄おっちゃまの信心の素晴らしいとこはここだと思うたと云うお話をしとりました。例えそんなら皆さんのそれを云うとです、成程只今一番初めに申します様に、この人は大体おかげ受けられん筈ないとばってん、私の前での、云うならあんたおかげの受かられん筈ないとばってん、不思議でたまらん。どうして受けられんじゃろか。
 その人が家でも、その通りでございますと、言わんばっかりにしておるから、そう思うのです。ところが実は先生、私は先生の前だけでありましてから、こう云うところがでけとらんと云うことを、人の前でも本当にこう、それが話せると云うことです。いいえ私はつまりませんと、だけぐらいな所までは言うけれども、如何にもいいえ、私椛目で頂いとるのをそのまま。
 家庭でも実行しとりますと云う様な、顔をしとるだけでは、おかげにならん。時に私が頂くのがですね、仁丹の看板ば頂くです。皆さんあの仁丹の看板知ってあるですか。ハアーいかめしいこんな髭を生やしてね、立派ないわゆる仁丹とは口に涼しいと云うことでしょうが、口には涼しいんです。いかにもすがすがしいこというておる。見かけはなるほど紳士のようにしておるけれどもその内容たるや空である。
 内容は汚い。これだけの人が陰でこう言う様な事をして、おかげ頂ける筈はないと云う様なそのことをです、本気で人からでも指摘して貰うて、そこんところを私は取り組んで、おかげを蒙っていかなければです、おかげにはならん。椛目で頂いとる信心を、親先生の前での様に、実意丁寧ないわば風をです、家に帰ってでも致しておりますと、云う様なです、風をし、又言うておるもんですから、不思議でたまらん。
 どうしてそれだけの事ができよっておかげ頂かれんじゃろかと云うごと不思議を感ずるんですけれどもね。どうぞその皆さん、成程自分が椛目だけであると、み教え頂いとる時だけである。椛目で御用頂いとる時だけである。一方蔭のことになったらその事がでけてない。昨日子供達としみじみ、もうしみじみその事をそこじゃんねて云うて話したことでございますけどもです、ね。
 とにかく有難くなりたいと言いながらです、蔭でこげなこつしよると云う事になって、おかげの頂ける筈がなかもんねと云うことでした。例えばここに食べ物がある。人が見とらんならてんでよかとこから、こう気違いのごとなって食べてしまう。人がおる時には行儀良くうしとる。人間なそんなものがあるんですよ。私が小学校の時に、遠足の帰りに山本に居られます上野と云う先生の所に。
 仲なよかグループだけで寄れと言われるから、寄ったんです。丁度柿の時分じゃった。そしてこんなしょうけに、篭一杯その柿を食べろと言うて出されたんです。だあれん遠慮して食べませんです。そしたら先生がちょいと立たれて行かれたら、先生が見えて柿がいっちょん入っとらん。あら柿はどげじゃったかちいよんなさるとですもん。食べしもとるけん先生が大笑いしなさった事があるです。
 先生の前ではちゃんとこうやっとる。遠慮しとる。それがよかつのごとしとるわけですたい。それでちょっと立ちなさったらてんでおっとりぐっちょだん、食べてしもとる。先生が見えてからアラ柿はどげじゃったかち、食べてしもとるもんじゃけん、本当にまあ笑われたことがございましたけれども、人間にはそういう様なものがある。信心とはそういう所に取り組むんですよ。
 お徳を受けられた方と云った様な方はです、そこんとこを大事にされるんです。昨日は長男が言っとりました。学院に僕の友達の、誰々と云う人は、もう学院の若いもんばぁかりで、こうやってその、金光様の先生になろかと云う、いくら若いもんでも、人達の集まりなんですから、やっぱりその本当に、先生になる稽古をしておると云う。そげなこつあるまいごとあるけれども。
 人がおらんならやっぱ同じ食べ物でもよかとこばっかり食べてしまう。結局後には屑だけしか残らんという様なですね。結果になるって、ところが僕の知ってる誰々と云う学院生はですね、もうそこだけしか食べんそうです。まだ若いんです。ある時にその事を聞いたら、これは家の父もそうだと、お父さんの信心をです、せめてそこだけなっとんと思うて修行しておられる。
 これは人が見ておろうが見ておるまいがそうっじゃんねて、お父さんが若い時からこれだけは実行して居ると云うことがです、例えば便所にやらせて頂いてから、これはもう共同便所にでも行ってから、もし紙がそこになかったら自分の懐紙を半分必ずそこに置いて来ることを私はこれは若い時から実行しとります、ね。その後のいわゆる仁丹じゃなかばってん、それこそ口だけが涼しいのじゃない、自分の心が涼しくなるです。
 おかげの受けられん人は、例えばトイレに行ったらチリ紙でんです、あるならガバーッと持ってきてから自分の懐の中に持って帰って来るて云う様なことで、おかげの頂ける筈がないじゃないか誰も知りません。だって許さんのは神様と自分の心なのです。自分の心が許さんのです。そしておかげの頂ける筈はない。おかげの頂ける筈がないとばっかり言うとったっちゃほんなこておかげの頂けない筈です。
 そげなこっちゃね、極端な例ですけども、結局信心とは、自分の心の中にすがすがしいとか有難いとか、勿体ないとかと云うそれを、頂くために信心の稽古をさして頂くのですから、そういう心の頂けることの為に、人が見ておろうが見ておるまいが、陰であろうが、表であろうがですです、それを実行させて頂くところにm私は有難い心と云うものは許されると思うのです。
 もう本当に表よりも裏、外よりも内容そのことをです。人が見ておる時よりもむしろ見ていない時をです、本気で大事にさせて頂く。ところが実際繁雄さんじゃないけれども、いいえ私は椛目だけですよ、親先生の前だけですよ。実は私もこげんとこもある。こげんとこもある。これでは家の息子家内達が付いて来る筈はないことを気付かせて貰うて、今そこに取り組んでおりますと。
 自分をそげんして暴露したっちゃ誰れん、アラあなたのそげんとこがあったのち、云うてからテレビで宣伝しょうごとある。本当に久富さんの素晴らしいとこはあすこだと長男がその時横におって感じたと云う様にです、どうでもひとつそういうところに本気で取り組ませて頂いてね、形だけではない、口だけではない、心の中にもそれこそ仁丹飲むような涼しい、すがすがしい思いが。
 心の中に何時も頂けておる様な信心。そういう私は信心を願わせて貰い、おかげを頂いていかなければいけないとこう思うのです。同時に信心の共励をすると云うことは、椛目のいわば縦につながって神様に通う。それが一番通うごとあるけれども、実は非常に難しいことなのだと云うこと。それをお互い信心の友達同志がですたい、普通では言えない、普通では触れられない。
 お互い本気で改まろう、本気で研き合おうと云う時ですから。どういう事を言われてもです、ほんなこっちゃん、そこが私が改まらんならんとこじゃん、あんたもそこんところをと云う様な共励をさして頂く様なです、雰囲気がでけてくる。それが横へのつながりとなって、いわばこれならばいよいよ信心のプラスになってです、よいところへ出られると云うか神様に通うて行く。
 所の信心がみ易うでける様になってくる。本当に本当に腹蔵のない雰囲気と云うか、本気で研き合おう、共励し合おうと云う場をです、設けさして貰い、又そういう場をです、楽しみに、共励さして頂くと云う様な雰囲気が、共励会の中にでけてくる様になりましたらです、本当に何かしら、信心がぐいぐい身に付いて来る様な、おかげになって来るのじゃないかとこう思うですね。
   どうぞ。